窯元インタビュー

柴岡陶泉堂 香山窯

(ライター:ちづ

今回は、柴岡陶泉堂 香山窯のご紹介です。
柴岡陶泉堂 三代目柴岡 香山の長男である柴岡 力さんにインタビューさせていただきました。

柴岡陶泉堂は、大正元年から続く老舗の窯元です。桟切りや青備前の焼き色で、花器や壷、食器など、伝統的な作品にとどまらず、日常生活を彩る器を作陶されています。

柴岡陶泉堂はどのようなものを作られているのでしょうか。

柴岡力さんと柴岡陶泉堂の窯
柴岡力さんと柴岡陶泉堂の窯

“柴岡陶泉堂の窯では、桟切りを多く焼きます。
窯焚きの終盤、1200℃程の温度になった窯に大量の木炭をくべ、それが燃焼して出てくるガスと、粘土に含有している鉄分が反応して発色する焼け色です。
粘土もサンギリに向いたものを多く使っていますので、地肌を白く焼く必要のある火襷(ひだすき)は、うちでは、あまり多くは焼いていません。
各窯元・作家の窯にはそれぞれ特徴があり、窯の焼き方、粘土の選別によって出しやすい焼き色があるんです。
最近は「青備前」作品にも力を入れています。
「青備前」は直接火にあたらないよう、その作品より一回り大きなもので覆い隠して焼成します。
さらに窯詰めの際に、高温時、還元の状態(酸素が足りない状態で燃焼が進行する焼き方)になる場所に作品を入れておくのです。
そうすることで、表面は青を発色し、巻いていた稲藁の跡が白く発色する「青備前」が出来るのです。
ただ、そうはいっても「青備前」を意図して焼くことはなかなか難しいのですけどね。”

柴岡陶泉堂は古くから窯元としてあったとお伺いしていますが。

当時の手榴弾
当時の手榴弾

“大正元年、私の曽祖父の時代に創業しました。
最盛期には備前焼の窯元・作家は400軒ほどあったと言われています。
しかし、長い歴史の中では、やはり窯元、ひいては備前焼にも栄枯衰退があったようです。
戦時中は、伊部で稼働している窯元・作家が、わずか5軒ほどになったそうで、柴岡陶泉堂も農家と兼業でなんとかやってきました。
大戦末期には軍の依頼で手榴弾を作ったこともあるそうです。納品前に終戦になったため実際に使われることはなかったそうなんですけどね。”

柴岡力さんは、いつごろからこの世界に入ったのですか?

“家業が窯元だったため、小さいころから遊び場には、窯を焚く薪がつんでありましたし、山に行けば昔の備前焼が埋まっていました。昔は死人を甕に入れて埋葬していたのです。その甕が、崩れた山肌から見えているんです。話はそれますが、豊臣秀吉も備前焼が大変すきだったそうで、秀吉も、備前焼の甕を使って埋葬されているそうです。そういった生活の中に、備前焼や作陶があったので、自然と私も始めていました。私は、陶芸センターで1年間研修を受けて、その後父や、当窯にいた職人に技術を教えてもらいました。職人さんは、やはり芸術的技術もすごいですが、同じ形をものすごいスピードで作っていくので、そういった部分でもとても刺激になり、学ぶことも多かったです。”

柴岡力さんの作家としての特徴や普段心がけているところはどういったところでしょうか。

柴岡力さんの作品 ロボット
柴岡力さんの作品 ロボット

“伝統がある焼き物、家業なので、その伝統を捨ててはいけないと思っています。やはり祖父、曽祖父から受け継いだものを、自分たちの代で惨めな形にしたくないですからね。必ず次の代に残していきたいと思っています。ですが、基本の芯を貫いた上で、備前焼の概念を抜け出したようなものも作っていきたいと考えています。そういう意味でも、備前焼でロボットを作ったり、動物のオブジェを作ったりすることは楽しいです。”

柴岡陶泉堂 香山窯
岡山県備前市伊部669
0869-64-2162

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(敬称略)

一陽窯

(ライター:ちづ

今回は、一陽窯のご紹介です。
一陽窯 木村肇さんにインタビューさせていただきました。

一陽窯は、桃山時代の頃から代々続く備前焼窯元六姓(※1)のうちの一つ、木村家 13代 木村長十郎友敬の次男、木村一陽氏が昭和22年に分家独立して設立した窯元だそうです。

作家になられたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

一陽窯ののぼり窯
一陽窯ののぼり窯

“家業が窯元だったからです。
小さいころから土に触れていました。小学生の頃から工房で職人さんに教えてもらいながらロクロをしたり、土を練ったりと邪魔をしていました。父に見つかると出て行けとよく怒られていました。簡単にやらせてもらえなかったので逆にすごく興味をもっていたのだと思います。”

備前焼のどのようなところに引き込まれていったのでしょうか

“私は素材をいじるのがとても好きなのです。土を触っていてもひんやりとして気持ちがいいし、備前焼は大きな窯で何日間も木を焚くのですが、気候や風向き、木によっても毎回同じ焚き方では上手くいきません。それらを考えながら焚いていくことが面白いです。自然と向き合うことが楽しいと感じるのは、人間の本質かもしれませんね。”

歴史のある窯元を引き継ぐということをどのように考えていらっしゃいますか。

“時代とともに、求められる物、作るべきものが変わってきますし、私たちの先代と先々代を比較すると作っている物はかなり違います。製法も緩やかではありますが変化しています。
よく新しい作品を作ることに抵抗はありませんか?と聞かれますが特にそのようなルールやしがらみは気になりません。
ただ、基本的な製法は守り受け継がなければダメだと思ってます。”

これから挑戦したいことはありますか?

“特別これをと言う事は無いです。ぼんやりですが歴史の中で多く作られ、使われたものを現代に再編集し使われる物が出来ればと思っています。”

(※1)備前焼窯元六姓:室町時代中期から江戸時代にかけて、座の制度が設けられたのに伴い、伊部にも窯元の下部組織が生まれ、「木村、森、大饗、頓宮、金重、寺見」の各家のみに製造が許されていました。(参考:協同組合岡山県備前焼陶友会 備前焼)

【一陽窯】
岡山県備前市伊部670
Tel:0869-64-3655 fax:0869-64-0323

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(敬称略)